カーテンが揺れ、窓から差し込む日の眩しさで萌香は目覚めた。隣に手を伸ばすとそこに翔平の背中はなく、シワのよったベッドシーツが昨夜の出来事を物語っている。熱めのシャワーを浴びると思考回路がハッキリとしてきた。翔平は、離婚しましょう。と言った萌香の顔を見て明らかに狼狽えていた。
(どうして?この結婚に愛なんてないのに、どうして、あんなに慌てていたの?)
その後、家を飛び出した翔平は深酒で帰宅した。彼は酔いに任せて萌香に、愛している。と、その思いを吐露した。そして彼女を、ベッドの上で貪るように深く愛した。
(翔平くんは、私のことを愛している?まさか、そんなはずない)
萌香の身体に残る翔平の情熱、掴まれた腕には彼の指の痕が残っている。萌香はその痕を指先で撫ぜ、翔平の心のうちに思いを巡らせた。
萌香は消毒液の匂いと白い蛍光灯がチラつく病院の廊下を歩いていた。通り過ぎる看護師が笑顔で、今日もお疲れ様です。と会釈する。もう何度この光景を繰り返しただろう。この三年間にわたる、昏睡状態の母親の世話と翔平の横暴な仕打ちに萌香は疲れ切っていた。浅葱菜月様、プレートを確認して病室の扉を開ける。白い部屋のベッドで、人工呼吸器とピーブ音が規則正しく母親の命を繋いでいた。萌香はベッドの脇に腰掛けると、動くことのない痩せ細った母親の手を握って涙声になった。
「お母さん、私、翔平くんと離婚することに決めたよ」
その手は無反応で、返事はなかった。萌香は涙を溢しながら母親に優しく語りかけた。
「浅葱の家、売ってもいいかな?そのお金でどこか遠くに行こう?」
萌香は、今は誰も住まない浅葱の邸宅を手放すことを決意した。父は知人の借金の連帯保証人になって自己破産に追い込まれた。けれど、浅葱の邸宅だけは手放さなかった。
「もう限界なの。そのお金で、二人で遠くに行こう?海が見える小さな町なの。養護施設からも綺麗な夕陽が見えるわ。お母さんもきっと気にいると思う」
その時、ショルダーバッグのスマートフォンが震えた。着信は、久我家本宅に仕える執事、長谷川からだった。本宅から連絡が入ることは珍しかった。
「お母さん、また来るね!」
萌香は慌てて廊下に出た。
「奥様、お久しぶりでございます」
「長谷川さん、お久しぶりです。お元気でしたか?」
「奥様もお元気そうで、よろしゅう御座います」
翔平は、母親の事故後、本宅から現在の高層マンションに移り住んだ。母親との思い出が残る家に暮らすことが辛いのだろう、萌香はそう思っていた。萌香もまた、当時の記憶を呼び覚ます久我家の本宅に行くことは躊躇われ、現在では執事の長谷川が一人で管理していた。
「奥様、旦那様から本宅にお越し下さいと仰せつかっております」
「私が、本宅に?なぜ?」
既に、使いの車が病院の車寄せに着けられていた。用意周到、萌香に拒否権は一切ない。横柄な翔平らしい行動だった。萌香は時速60キロメートルで後ろに流れる景色を車窓から見ていた。翔平の、愛している。との言葉が頭の中で繰り返す。それは幼い日の、優しい思い出を呼び覚まし、彼女の目尻には涙が浮かんだ。車は久我家の邸宅に到着した。
(三年ぶりだわ、なにも変わっていない)
石造りの門を潜ると二階建ての邸宅が姿を現した。隣には薔薇園があり、ティーローズが満開だった。やや朽ちた白いブランコが揺れている。翔平と愛ある未来を語ったブランコだ。萌香の胸にチクリと小さな針が刺さった。車寄せには黒いスーツの長谷川が出迎えていた。後部座席の扉が開き、懐かしくも忌まわしい空気が萌香を包み込んだ。
「それで、パーティーがあるのね?」
「はい、奥様同伴ということで、ドレスを預かっております」
「・・・ドレス」
これまで、秘書として企業間取引のパーティーに連れ立ったことはあるが、夫婦同伴のパーティーなど初めてのことだった。協議離婚や退職の手続きなど話し合いたいことは山積みだが、パーティーが終わったら話そうと考え、応接室へと向かった。
「これは嫌味かしら?」
「いえ、奥様にはこの色がお似合いかと思われます」
「喪服みたいね」
それは漆黒のイブニングドレスだった。デコルテは大きく開き、萌香の透き通る白磁の肌を際立たせた。真珠のネックレス、イヤリング、ご丁寧に、手首のアザを隠すようにバングルまで用意されていた。今夜のパーティーの準備のためにとヘアーアーティストがドレッサーの前で微笑んでいた。装飾が少ないシンプルなドレスに合わせ、ハーフアップにしましょう。と提案された。萌香は全てお任せすると、目を瞑って昨夜の翔平の告白を反芻した。
(一生、償えって、一生、側にいて欲しいってことよね、なんだかプロポーズみたい)
その時、頬をなぞっていた柔らかなチークブラシがサイドテーブルに置かれた。
「出来ましたよ、奥様、いかがでしょうか?」
「これが、私・・・・」
鏡の中の萌香は眩いほどに美しかった。それは表面上のことだけではなく、浅葱財閥で培われた内面から滲み出る気品がそうさせていた。また、翔平が選んだイブニングドレスは萌香の魅力を最大限に引き出している。それはまるで、いつもおまえだけを見ている。と耳元で囁いているようだった。
萌香は送迎の車に乗って、港区虎ノ門に向かっていた。東京のホテル御三家とされる、オークラ東京には著名人や各国大使館員、企業のトップ、上流階級と称される人々が集っていた。今夜のパーティーの目玉はオークション、アンティークの競りが行われる。オークションという宴を一目見ようと、会場は熱気に満ちていた。その時、萌香のハイヒールが濃紺のカーペットに足を踏み入れた。
「あちらの方はどなた?」
一人の女性が萌香の姿を見てつぶやいた。それは漣のように会場に静かに広がっていった。萌香の姿は、一輪の黒百合のようだった。人目を引くが決して媚びることなく凛として佇んでいる。
「どちらかのご令嬢かしら?」
「あまりお見受けしないお顔ね」
「ご同伴の方もいらっしゃらないようだし」
翔平は萌香の気を引こうとして、昨夜の女優を同伴し、このパーティーに参加していた。自分が女優と仲睦まじくしているところを見せつけ、萌香の嫉妬心を煽り離婚話を曖昧にするつもりだった。幼稚な発想だが、それほどまでに萌香が切り出した離婚というキーワードに動揺していた。
「ねぇ、シャンパン飲みましょうよ」
「あ、ああ」
萌香を見る翔平の目には、戸惑いと爆ぜる思いが混在していた。その美しさから目が離せない。存在すら眩しく、なぜ自分がこれほどまでに彼女を憎んでいるのか、その線引きが曖昧になった。
「ねぇ、行きましょうよ」
女優は本妻の登場に気分が悪くなった。法的な妻なだけじゃない!夫の後ろで身を引いていればいいものを、と唇を噛んだ。嫉妬に駆られた女優は翔平のスーツの袖を引っ張ると、クリスタルのシャンデリアが煌めくパーティー会場の中央へと連れ出した。
「早く、早く!」
「あ、ああ」
翔平は女優に手を引かれ、中央の丸テーブルに立った。光り輝くライトに照らされた翔平と腕を組んだ女優は、これから婚約発表でもするかのような、親密な関係を周囲にアピールしていた。
(あぁ、なるほどね)
萌香は、翔平の真意に気がついた。彼は、自分には特定の女がいるのだと萌香に知らしめたかったのだ。くだらない。萌香は大きな溜め息をついたが、せっかくここまで来たのだから、パーティーの雰囲気を楽しんでキリがいいところで帰ろうと思った。萌香は目立たない壁際の椅子に腰掛けた。ところが、あの方はどなた?存じ上げませんわ。それでも自然と彼女に視線が集まり、居心地が悪かった。
(やっぱりもう帰ろう、付き合っていられないわ)
萌香が椅子から立ちあがろうとしたところで、一人の男性が隣の椅子に腰掛けた。翔平の顔色が変わった。
第四十章萌香は港区の三十五階建てマンションを振り仰いだ。風が彼女の長い髪を捲き上げ、まるで自分を拒絶するかのような冷たい箱がそこにあった。ここはかつて萌香の自宅だった。エレベーターのガラスに映る彼女の表情は、毅然として美しかった。真実の愛を手に入れ、克己の母となった今、彼女は過去の自分とは違っていた。ショルダーバッグには、萌香のサインが入った離婚届が静かに収まっている。萌香は今、翔平という過去と決別する覚悟を固めていた。エレベーターが上昇する中、彼女は克己の笑顔と克典の温もりを思い出し、胸に力を取り戻した。ダウンライトが点る廊下に、ハイヒールの音だけが悲しげに響く。見慣れたはずの我が家の扉は、別世界へと繋がる門のように感じられた。萌香は深呼吸し、離婚届を握りしめた。翔平との対峙は、彼女の人生を取り戻す最後の戦いだった。扉の向こうで、過去の呪縛を断ち切り、克典と克己との未来へ踏み出すために、萌香は一歩を踏み出した。インターフォンを押す彼女の瞳には、希望と決意が宿っていた。「・・・・はい」「萌香です」「開いているから、入れ」「分かりました」
第三十九章萌香が日本へ発つ日が決まった。その夜、萌香は初めて田辺克典と結ばれた。克典の優しい指先は萌香を蕩けさせ、熱い唇は彼女の身体に赤い花びらを散らした。それはまるで二人が二度と会えないことを予見するかのように、萌香の奥深くまで情熱的に刻み込まれた。抱き合いながら、萌香は克典の鼓動を感じ、未来への不安と希望が交錯した。克己の寝息が静かに響く部屋で、二人は互いの存在を確かめ合った。「パパ、ば、ば、」「うん、バイバイだね」空港のロビーで、萌香に抱かれた克己は、克典の袖を小さな手で握り、愛らしく微笑んだ。萌香は目を細め、二人のやり取りを交互に見つめた。克己の無垢な笑顔が、彼女の心に温かな光を灯した。「克典くん、なに、永遠の別れみたいな顔しちゃって」「そうかな・・・」「大丈夫よ、帰ってくるから」搭乗チケットを手に、萌香は背伸びして克典に軽く口付けた。別れの瞬間、克典の瞳に宿る寂しさを感じつつ、彼女は微笑んだ。萌香と克己を乗せた飛行機は、カリフォルニアの青い空
第三十八章萌香は眩しい分娩台の上にいた。それはカリフォルニアの明るい太陽を思わせる光で、彼女の顔を白く照らし出した。波のように寄せては返す陣痛に耐えること四時間、額には汗が滲み、苦悶の表情が浮かんだ。唇を噛みしめ、痛みに耐えるたび、萌香の心には過去の記憶が蘇る。翔平との三年間の結婚生活は、愛というより重圧に満ちていた。すれ違いの日々、冷えた会話、互いの心の距離。だが、その中で芽生えた新しい命は、彼女に光をもたらした。田辺克典との出会いは、萌香の人生に新たな色を加えた。彼の穏やかな笑顔、優しい言葉が、凍てついた心を溶かしたのだ。今、陣痛の合間に萌香は思う。この赤ん坊は、過去の傷を癒し、克典との第二の人生を照らす希望の光だと。痛みがピークに達する瞬間、彼女は力を振り絞り、新しい命を迎える準備をした。その小さな泣き声が、萌香の心に響き、未来への一歩を刻んだ。「萌香さん、男の子ですよ」「男の子・・・・・」「とても元気だわ、頑張ったわね」萌香は涙を流し、赤ん坊のぬくもりを感じた。産室の静寂に小さな泣き声が響き、彼女の心を温めた。そこへ会社から駆け付けた田辺克典が現れた。手に深紅の薔薇の花束を持ち、穏やかな笑顔で萌香を見つめる。「萌香ちゃん! 男の子だったんだね!」
第三十七章萌香の胸は早鐘を打った。翔平が、自分が妊娠したことを知ったらどんな反応をするだろうか。彼はこの子を自分の子供だと認知し、久我家の跡取りとして、取り上げるかもしれない。萌香は、それだけはなんとしてでも避け、赤ん坊を守りたかった。緊張で口の中が渇いた。いつまでも居留守を使える訳もなく、萌香は震える指先で応答ボタンを押した。「どちら様でしょう?」萌香の他人行儀な返事が気に食わなかったのか、翔平は先の尖ったナイフを突き立てるように激しい口調で萌香を罵った。彼女はその言葉を聞いているだけで、三年間の辛く惨めな結婚生活が瞼の裏に浮かんでは消えた。唇を噛み、握り拳を作る。萌香は、母として毅然とした態度でモニターに映る翔平に話しかけた。「もう、お会いすることはありません。どうぞお引き取り下さい」「萌香! お前はまだ俺のものだぞ!」翔平はポケットから封筒を取り出すと、彼のサインが空欄の離婚届を広げて見せた。萌香は、まだ離婚が成立していなかったことに衝撃を受け、その場に座り込んだ。翔平の「不受理申出」が、彼女の自由を阻んでいた。あの夜の暴力、復讐に囚われた彼の執念が、なおも彼女を縛る。萌香は腹の子に触れ、決意を新たにした。「この子は私
第三十六章萌香がカリフォルニアでつわりで苦しんでいる頃、翔平は日本で彼女を探し回っていた。二ヶ月前、突然ポストに投函されていた萌香からの離婚届に衝撃を受けた。翔平は、勝手に離婚届を出されないよう、区役所で“離婚届不受理申出”の手続きをした。(どこに行ったんだ!)萌香の母親が入院していた病院に向かったが、ベッドはもぬけの殻で、ビープ音のない白いベッドがあるだけだった。ナースステーションにどこに転院したのかと尋ねたが、「個人情報ですから」と事務的な返事が返ってきた。当然、一千万円近くの入院費用は一括で支払われていた。翔平の胸に怒りと焦りが渦巻く。翔平は、公証役場で萌香に声をかけた田辺という男を思い出した。田辺克典はオークションで一千万円を支払う財力を持っている。萌香の母親の入院費用も、田辺が工面したに違いなかった。翔平は田辺克典の足取りを追うため、知人の調査会社に連絡した。「絶対に見つけ出す」ところが、埼玉県川越市にある田辺の実家は古びた一戸建てで、到底、金回りが良いとは言えなかった。家から出てきた年配の男性、おそらく
第三十五章萌香は、彼の復讐が盲信であったにも関わらず、離婚に応じない翔平の姿勢に苛立ちを感じるようになっていた。そこには僅かな情が陽炎のように揺れていたが、それもやがて儚いものへと変化した。萌香は、サインをした離婚届を翔平のマンションのポストに入れた。もう後戻りはしない。確固たる思いが萌香を支配した。「お待たせ」「早かったね」「ポストに入れるだけだから」彼女は翔平から逃げるため、田辺克典とアメリカに渡航することに決めた。母親の多額の入院費の支払いも済み、最先端の治療を受けられるようカリフォルニアの病院に転院する手続きも済ませた。「ありがとう、田辺くん」「いいんだよ」田辺克典は、翔平との離