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第八章 母の病室

Auteur: 雫石しま
last update Date de publication: 2025-07-23 04:00:50

カーテンが揺れ、窓から差し込む日の眩しさで萌香は目覚めた。隣に手を伸ばすとそこに翔平の背中はなく、シワのよったベッドシーツが昨夜の出来事を物語っている。熱めのシャワーを浴びると思考回路がハッキリとしてきた。翔平は、離婚しましょう。と言った萌香の顔を見て明らかに狼狽えていた。

(どうして?この結婚に愛なんてないのに、どうして、あんなに慌てていたの?)

その後、家を飛び出した翔平は深酒で帰宅した。彼は酔いに任せて萌香に、愛している。と、その思いを吐露した。そして彼女を、ベッドの上で貪るように深く愛した。

(翔平くんは、私のことを愛している?まさか、そんなはずない)

萌香の身体に残る翔平の情熱、掴まれた腕には彼の指の痕が残っている。萌香はその痕を指先で撫ぜ、翔平の心のうちに思いを巡らせた。

萌香は消毒液の匂いと白い蛍光灯がチラつく病院の廊下を歩いていた。通り過ぎる看護師が笑顔で、今日もお疲れ様です。と会釈する。もう何度この光景を繰り返しただろう。この三年間にわたる、昏睡状態の母親の世話と翔平の横暴な仕打ちに萌香は疲れ切っていた。浅葱菜月様、プレートを確認して病室の扉を開ける。白い部屋のベッドで、人工呼吸器とピーブ音が規則正しく母親の命を繋いでいた。萌香はベッドの脇に腰掛けると、動くことのない痩せ細った母親の手を握って涙声になった。

「お母さん、私、翔平くんと離婚することに決めたよ」

その手は無反応で、返事はなかった。萌香は涙を溢しながら母親に優しく語りかけた。

「浅葱の家、売ってもいいかな?そのお金でどこか遠くに行こう?」

萌香は、今は誰も住まない浅葱の邸宅を手放すことを決意した。父は知人の借金の連帯保証人になって自己破産に追い込まれた。けれど、浅葱の邸宅だけは手放さなかった。

「もう限界なの。そのお金で、二人で遠くに行こう?海が見える小さな町なの。養護施設からも綺麗な夕陽が見えるわ。お母さんもきっと気にいると思う」

その時、ショルダーバッグのスマートフォンが震えた。着信は、久我家本宅に仕える執事、長谷川からだった。本宅から連絡が入ることは珍しかった。

「お母さん、また来るね!」

萌香は慌てて廊下に出た。

「奥様、お久しぶりでございます」

「長谷川さん、お久しぶりです。お元気でしたか?」

「奥様もお元気そうで、よろしゅう御座います」

翔平は、母親の事故後、本宅から現在の高層マンションに移り住んだ。母親との思い出が残る家に暮らすことが辛いのだろう、萌香はそう思っていた。萌香もまた、当時の記憶を呼び覚ます久我家の本宅に行くことは躊躇われ、現在では執事の長谷川が一人で管理していた。

「奥様、旦那様から本宅にお越し下さいと仰せつかっております」

「私が、本宅に?なぜ?」

既に、使いの車が病院の車寄せに着けられていた。用意周到、萌香に拒否権は一切ない。横柄な翔平らしい行動だった。萌香は時速60キロメートルで後ろに流れる景色を車窓から見ていた。翔平の、愛している。との言葉が頭の中で繰り返す。それは幼い日の、優しい思い出を呼び覚まし、彼女の目尻には涙が浮かんだ。車は久我家の邸宅に到着した。

(三年ぶりだわ、なにも変わっていない)

石造りの門を潜ると二階建ての邸宅が姿を現した。隣には薔薇園があり、ティーローズが満開だった。やや朽ちた白いブランコが揺れている。翔平と愛ある未来を語ったブランコだ。萌香の胸にチクリと小さな針が刺さった。車寄せには黒いスーツの長谷川が出迎えていた。後部座席の扉が開き、懐かしくも忌まわしい空気が萌香を包み込んだ。

「それで、パーティーがあるのね?」

「はい、奥様同伴ということで、ドレスを預かっております」

「・・・ドレス」

これまで、秘書として企業間取引のパーティーに連れ立ったことはあるが、夫婦同伴のパーティーなど初めてのことだった。協議離婚や退職の手続きなど話し合いたいことは山積みだが、パーティーが終わったら話そうと考え、応接室へと向かった。

「これは嫌味かしら?」

「いえ、奥様にはこの色がお似合いかと思われます」

「喪服みたいね」

それは漆黒のイブニングドレスだった。デコルテは大きく開き、萌香の透き通る白磁の肌を際立たせた。真珠のネックレス、イヤリング、ご丁寧に、手首のアザを隠すようにバングルまで用意されていた。今夜のパーティーの準備のためにとヘアーアーティストがドレッサーの前で微笑んでいた。装飾が少ないシンプルなドレスに合わせ、ハーフアップにしましょう。と提案された。萌香は全てお任せすると、目を瞑って昨夜の翔平の告白を反芻した。

(一生、償えって、一生、側にいて欲しいってことよね、なんだかプロポーズみたい)

その時、頬をなぞっていた柔らかなチークブラシがサイドテーブルに置かれた。

「出来ましたよ、奥様、いかがでしょうか?」

「これが、私・・・・」

鏡の中の萌香は眩いほどに美しかった。それは表面上のことだけではなく、浅葱財閥で培われた内面から滲み出る気品がそうさせていた。また、翔平が選んだイブニングドレスは萌香の魅力を最大限に引き出している。それはまるで、いつもおまえだけを見ている。と耳元で囁いているようだった。

萌香は送迎の車に乗って、港区虎ノ門に向かっていた。東京のホテル御三家とされる、オークラ東京には著名人や各国大使館員、企業のトップ、上流階級と称される人々が集っていた。今夜のパーティーの目玉はオークション、アンティークの競りが行われる。オークションという宴を一目見ようと、会場は熱気に満ちていた。その時、萌香のハイヒールが濃紺のカーペットに足を踏み入れた。

「あちらの方はどなた?」

一人の女性が萌香の姿を見てつぶやいた。それは漣のように会場に静かに広がっていった。萌香の姿は、一輪の黒百合のようだった。人目を引くが決して媚びることなく凛として佇んでいる。

「どちらかのご令嬢かしら?」

「あまりお見受けしないお顔ね」

「ご同伴の方もいらっしゃらないようだし」

翔平は萌香の気を引こうとして、昨夜の女優を同伴し、このパーティーに参加していた。自分が女優と仲睦まじくしているところを見せつけ、萌香の嫉妬心を煽り離婚話を曖昧にするつもりだった。幼稚な発想だが、それほどまでに萌香が切り出した離婚というキーワードに動揺していた。

「ねぇ、シャンパン飲みましょうよ」

「あ、ああ」

萌香を見る翔平の目には、戸惑いと爆ぜる思いが混在していた。その美しさから目が離せない。存在すら眩しく、なぜ自分がこれほどまでに彼女を憎んでいるのか、その線引きが曖昧になった。

「ねぇ、行きましょうよ」

女優は本妻の登場に気分が悪くなった。法的な妻なだけじゃない!夫の後ろで身を引いていればいいものを、と唇を噛んだ。嫉妬に駆られた女優は翔平のスーツの袖を引っ張ると、クリスタルのシャンデリアが煌めくパーティー会場の中央へと連れ出した。

「早く、早く!」

「あ、ああ」

翔平は女優に手を引かれ、中央の丸テーブルに立った。光り輝くライトに照らされた翔平と腕を組んだ女優は、これから婚約発表でもするかのような、親密な関係を周囲にアピールしていた。

(あぁ、なるほどね)

萌香は、翔平の真意に気がついた。彼は、自分には特定の女がいるのだと萌香に知らしめたかったのだ。くだらない。萌香は大きな溜め息をついたが、せっかくここまで来たのだから、パーティーの雰囲気を楽しんでキリがいいところで帰ろうと思った。萌香は目立たない壁際の椅子に腰掛けた。ところが、あの方はどなた?存じ上げませんわ。それでも自然と彼女に視線が集まり、居心地が悪かった。

(やっぱりもう帰ろう、付き合っていられないわ)

萌香が椅子から立ちあがろうとしたところで、一人の男性が隣の椅子に腰掛けた。翔平の顔色が変わった。

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